美好の歴史 目次

はじめから読む

一、 ご当地とのゆかり
二、 三潴郡大川町榎津の発展
三、 剛毅豪胆 祖父森留吉伝
四、 久留市軍都となる
五、 森留吉と村石ソメ運命の出会い
六、 屋号「美好」の由来
七、 人力車に揺られて芸者さんが通る美好料理屋から花の金一封
八、 大川デパート建立
九、 支那事変、大東亜戦争
十、 為森三男君 男無私欲 沃火 活水
十一、 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
十二、 讒言 菅原道真公の嘆きもかくや
十三、 袖に涙がかかる時、人の心の奥ぞ知られける

当時の庶民の楽しみは少なく、お風浪さん祭りは大賑わいで近隣の町や村、羽犬塚、久留米、佐賀諸富からは渡し舟でお参りに来、列をなし身動きも出来ず朝から晩まで参拝客であふれていた。

肉の美好

留吉は当然計算済みで1週間くらい前から八女地方より荷車、車力で大量に山のように串の柿を仕入れて来ており、近所の人がど肝を抜かしたそうです、境内であっという間に売れて無くなり、さらに仕入れては売り尽くし、資金を造る、近所の古老は「留吉さんのさすことはとにかくたまげた」と話してくれます。

肉の美好

次男、茂樹は幼くしてなくなり、父・森三男大正6年11月3日、
明治の慶節に参男として生まれる、この頃は「森商店」と言っていたそうです。

交通の拠点というこの立地に、留吉は日々商いが出来る料亭料理屋を構想しており、
持っていた電話番号が大川町344番だったので覚えやすい「みよし」と着想、
縁起がよい吉の画数15文字で「美好(みよし)」と命名、
美し(うまし)好(よし)という思いを込めて、屋号とする。
森商店から料理亭「美好」として大正8年(1917年)発展創業する。

料理屋と言っても留吉がすることは尋常ではなく、魚貝類は河海が近いので市場より仕入れ、主にうなぎ飯、セイロ、蒲焼、スッポン料理などを供していたそうです。ところが川魚は冬になると冬眠するので冬場の献立を考えねばなりません、久留米の料亭に出入りしていたので鳥料理を考えており、入手先も知っていました。当時ハレ(晴れ、祝い)の日だけしか食べることが無かった、“かしわ”(鶏)を料理に使う計画でした。親子丼、茶碗蒸しは年中の献立で、冬場の鍋物として水炊き料理を供していました。魚や、うなぎ、かしわは板場さんたちが捌いていましたが、冷蔵庫が無く氷柱で冷やし保存していた時代ですので、鮮度を保つにはかしわをそのまま小売り販売し入れ替わりを良くして、新鮮な材料で料理するようにと考えていました。お客さんもハレの日の食べ物が手に入るので重宝がられていました、一挙三得という按配でこちらの方を「森かしわ店」と呼んでいました。今のテイクアウト方式ですが当時では斬新な着想だったと感心させられます。

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・・・・「夕方になると検番から置屋に電話がかかり(当時一部ですが電話はありました)、着飾った芸者さんが三味線箱を横に、人力車に揺られて呼ばれた料理屋やご祝儀の座に向かっていました。今の美好肉屋も当時、美好料理屋の屋号で料理屋をやっていました。お正月になると、“初おこし”で芸者衆が黒紋付の裾模様で縁起舞を披露してやり、美好料理屋が花の金一封の熨斗袋を与えておられました。私は一番前で見ていました。芸者衆さんは大変綺麗な化粧や衣装姿で踊られるので、私も芸者さんになろうかなと思ったりしました。」・・・(大正11年生、池上トシミ様談、ふるさと東町回顧録より)
 お役人さんや偉い人達は、打ち合わせ会議が多く会席食事となり後は宴席となり興がのってくると若津弥生町の検番に、この「三四四番」の電話で手動式のハンドルを数回廻し、交換台にまずつなぎそれから検番につながり、芸者さんを何人と頼み先程の人力車で当店に来て時間制で歌や踊りを披露し座を賑わせていました、その時間を計るのも時計などの野暮なものではなく、線香(約40分)何本と言う優雅な計り方でした。当時の鼓(つずみ)や琴、美好の銘入りの器、漆塗りの器など今もあります。久留米の将校さんや役人さんの遊びを熟知していたので、飲食だけではなく付加価値を付け収益を高める目論見だったのでしょう、それにしても当時の情緒ある賑わい、優雅な風情が目に浮かびます。

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お客さんが駆け込むと人手が足らず、留吉は近くの高等小学校に行っている父三男を授業中でも呼びに行かせ帰ってこらせて加勢させていました、気性、性格も自分に似ており素早くこなすので気に入っていました、後に久留米の結婚式場日本料理の「松源」に修行に出していました。
 昭和6年(1931年)満州事変勃発、昭和7年上海事変勃発、久留米工兵第18大隊の肉弾三勇士の勇名は天下に轟き、父三男は公会堂前の銅像で記念写真を撮って来ていました。徴兵も間近で思うところがあったと思います。
 昭和7年三潴軌道柳川、羽犬塚線が廃止となり、昭和10年(1935年)町の発展策のためマーケットを立てようということで祖父留吉も参画、連合百貨店大川デパートを建立する、福岡市の「岩田屋」や北九州の「井筒屋」より一足早く開店する。若津芸者を呼び米100俵を積んでの落成式は盛大だったという。当店も「かしわ店」のほうを出店、前出の池上トシミさん談「私が時たま買い物に行くのを知っておられ、沢山おまけしてくれました。何か義侠心の強い方であったようなおソメおばさんで、貧しい人には特に優しくして呉れました。今でも覚えていて胸にぐっと来るものがあります」と述べておられます。

肉の美好

昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋事件勃発、9月2日支那事変と改称。森三男、昭和13年(1938年)久留米第48より抗州湾上陸作戦に出征、上海、南京、広東、南寧と転戦。軍功誉れ高く、部隊長の賞辞(賞状)を頂き昭和16年(1941年)6月29日除隊、弾丸飛び交う中、果敢に敵陣に切り込み「肉弾三勇士」に負けずと任務遂行したと思います。
父留吉に一番に報告し喜んで貰おうと勇んで7月1日帰宅するが様子がおかしく問いただすと、非情にも「留吉父ちゃんはきのう亡くなった(6月31日)。」聞くや否や悔しさと歯がゆさで、怒ること、狂うこと、何でもかんでも投げつけ、暫らく手がつけられなかったそうです。戦地でならやむを得ぬが久留米の連隊まで帰って来ており、一報したら飛んでくるのにと、父の歯がゆさ悔しさ残念無念の心境はいたく想像できます。(軍の機密上任務地は極秘事項連絡不可)
日独伊三国同盟、対日経済包囲網ABCDライン、昭和16年12月8日太平洋戦争(大東亜戦争)開戦、生活物資の統制配給制になる、久留米市内の高等料理店30店廃業、この戦時下では料理屋美好は休業、昭和18年(1943年)8月長兄森一男死亡、父三男も再招集久留米第18師団(菊兵団)の中核部隊歩兵第56連隊に所属、インパール侵攻作戦時の助功隊として長期間阻止する任務でビルマ雲南方面に出征、戦況は厳しく生還せぬ覚悟でした。昭和19年(1944年)サイパン島玉砕、日本中がB29の爆撃圏内に入る、グアム島玉砕、父は菊兵団の部隊編成により本土防衛部隊として転属、同年9月13日ビルマ雲南守備隊玉砕、昭和20年(1945年)6月太刀洗陸軍飛行場で神風特功隊のB29撃墜配置計画と本土防衛部隊に配属、8月7日大牟田市空襲8月11日久留米市空襲、佐賀県諸富の味の素工場も米軍のグラマン戦闘機により空襲を受け、当大川デパートも機銃掃射を受ける(その時の20口径弾丸と薬きょうが残っています)。8月15日終戦、間一髪まさしく九死に一生にて帰還する。

肉の美好

 この為書きは、頭山満翁と親しく孫文とも親交がある大陸浪人政治家の玄洋社社員、
末永節(みさお)先生より書いて頂いたものです。

 父は三男坊で家督を継ぐ必要も無く、玄洋社のアジア主義に憧れており、
狭い日本よりいずれ大陸に渡り思う存分働きたいという大志を抱いていました、
それで末永先生とご縁があったと思います。

 復員して来たものの村石家の家族5人、自分の弟姉妹、兄の家族8人計13人を抱えて
暮らすにはかしわ店で生計を立てて行かざるを得ません。戦中戦後の食糧事情は悪く
食料の遅配欠配は当たり前で、栄養失調からくる結核は不治の病と云はれ牛乳や卵は
貴重品で薬代わりでしたし、かしわ(鶏肉)も数少ない蛋白源(栄養源)でした。
佐賀の諸富や早津江からも渡し舟に乗って買いに来てもらっていましたし、
農家の方は米を持ってきて分けてくれ(物々交換)等と多くのお客さんに恵まれ、
家族全員で働きました。  

 料理屋時代も、お客さんの求めに応じて牛鍋、すき焼きなど肉屋さんから仕入れてきて
出していたようで、それを知っているお客さんから牛肉はないかと尋ねられ、
売ってくれと頼まれることが多くなりました。 
 
 だが、当時も仏教の教えによる忌み感は強く、封建制の職業偏見も根強く、
祖母ソメも、父・三男も家族も取り扱うことに大いに苦衷、逡巡しました。
医薬品が足りず、栄養失調や肺炎による衰弱死、前途ある青年うら若き子女らが吐血し、
悲しみながら亡くなっていく様子を見、「医食同源」「滋味栄養」と病を治癒し回復する
薬代わりになり、体力造り回復に少しでも役に立てばと考え直し、
取り扱うようになりました。

 蒸気機関車みたいな大きな冷蔵機械を備え付けた冷蔵庫を作り、食肉類も扱うようになりました。料理屋時代に世話になった肉屋さんから分けてもらい、父が「松源」で修行の時捌き方など習得していたのでそれは役に立ちました、終戦後はみんな生きていくのに必死でした。