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七 人力車に揺られて芸者さんが通る美好料理屋から花の金一封

料理屋と言っても留吉がすることは尋常ではなく、魚貝類は河海が近いので市場より仕入れ、主にうなぎ飯、セイロ、蒲焼、スッポン料理などを供していたそうです。ところが川魚は冬になると冬眠するので冬場の献立を考えねばなりません、久留米の料亭に出入りしていたので鳥料理を考えており、入手先も知っていました。当時ハレ(晴れ、祝い)の日だけしか食べることが無かった、“かしわ”(鶏)を料理に使う計画でした。親子丼、茶碗蒸しは年中の献立で、冬場の鍋物として水炊き料理を供していました。魚や、うなぎ、かしわは板場さんたちが捌いていましたが、冷蔵庫が無く氷柱で冷やし保存していた時代ですので、鮮度を保つにはかしわをそのまま小売り販売し入れ替わりを良くして、新鮮な材料で料理するようにと考えていました。お客さんもハレの日の食べ物が手に入るので重宝がられていました、一挙三得という按配でこちらの方を「森かしわ店」と呼んでいました。今のテイクアウト方式ですが当時では斬新な着想だったと感心させられます。

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・・・・「夕方になると検番から置屋に電話がかかり(当時一部ですが電話はありました)、着飾った芸者さんが三味線箱を横に、人力車に揺られて呼ばれた料理屋やご祝儀の座に向かっていました。今の美好肉屋も当時、美好料理屋の屋号で料理屋をやっていました。お正月になると、“初おこし”で芸者衆が黒紋付の裾模様で縁起舞を披露してやり、美好料理屋が花の金一封の熨斗袋を与えておられました。私は一番前で見ていました。芸者衆さんは大変綺麗な化粧や衣装姿で踊られるので、私も芸者さんになろうかなと思ったりしました。」・・・(大正11年生、池上トシミ様談、ふるさと東町回顧録より)
 お役人さんや偉い人達は、打ち合わせ会議が多く会席食事となり後は宴席となり興がのってくると若津弥生町の検番に、この「三四四番」の電話で手動式のハンドルを数回廻し、交換台にまずつなぎそれから検番につながり、芸者さんを何人と頼み先程の人力車で当店に来て時間制で歌や踊りを披露し座を賑わせていました、その時間を計るのも時計などの野暮なものではなく、線香(約40分)何本と言う優雅な計り方でした。当時の鼓(つずみ)や琴、美好の銘入りの器、漆塗りの器など今もあります。久留米の将校さんや役人さんの遊びを熟知していたので、飲食だけではなく付加価値を付け収益を高める目論見だったのでしょう、それにしても当時の情緒ある賑わい、優雅な風情が目に浮かびます。
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