美好の歴史 目次

はじめから読む

一、 ご当地とのゆかり
二、 三潴郡大川町榎津の発展
三、 剛毅豪胆 祖父森留吉伝
四、 久留市軍都となる
五、 森留吉と村石ソメ運命の出会い
六、 屋号「美好」の由来
七、 人力車に揺られて芸者さんが通る美好料理屋から花の金一封
八、 大川デパート建立
九、 支那事変、大東亜戦争
十、 為森三男君 男無私欲 沃火 活水
十一、 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
十二、 讒言 菅原道真公の嘆きもかくや
十三、 袖に涙がかかる時、人の心の奥ぞ知られける

当家の祖母方の先祖は村石と云う姓です。室町幕府、十二代将軍足利義晴の家臣榎津遠江守の家臣団として、天文五年(1536年)榎津久米之介(願蓮寺創始者)等と供に鎧兜、武具一切を携え、京よりこの地に住まうようになりました。(願蓮寺所蔵古文書より)

しかしこの当時、筑後、三潴地方は蒲池、大友、龍造寺、島津氏らの戦国時代が続き、
家臣らは逼塞(ひっそく)し、工商をなしながら暮らしていました。

当家祖母ソメの父、村石林蔵(江戸末期 天保七年(1836年)生まれ)はこの家臣の末裔で、彫刻師村石繁太郎(通称繁蔵、天保五年生まれ)とは一門、同族であります、繁蔵は久留米市梅林寺の唐門(勅旨門)の彫刻、久留米市草野町須佐能哀神社の本殿、拝殿、楼門の彫刻、榎津水入町天満宮本殿の彫刻などの名作を残しています。

林蔵も大工としての腕は良かったそうですが、あいにくと長男を早く亡くし跡継ぎが居らず娘ばかり五人が残り、そのなかでも四女の村石ソメ(明治26年(1893年)9月4日生まれ)は明達で思慮深く、近辺でも評判の娘だったそうです、「ソメが男だったら」と林蔵は常々悔やんでいたそうです。この村石ソメ、のちの森ソメが、当家の祖母です。

肉の美好

18世紀に久留米藩が若津港、柳川藩が住吉港を築港し若津地区は港町として繁栄していた。
榎津地区は殆どが農地、田圃ばかりで明治12年(1879年)明治橋が出来ると次第に町並みが出来てきた。明治24年(1891年)久留米〜若津町間に九州鉄道(鹿児島本線)が路線を設定するが地元の賛同が得られず、大川町を通らず遠く離れた羽犬塚を通ることになった。明治41年(1908年)三池港が出来ると若津港は次第に衰退してきた。同年大川〜羽犬塚間の三潴軌道が開通し、電燈、電話の敷設といった運輸、通信面の変革期が到来した。陸の孤島となるのを危惧し中村綱次氏(合名会社清力商店)らの肝いりで若津〜久留米間の大川鐵道が開通した(大正元年、1912年)。大正3年(1914年)には三潴軌道支線の若津〜柳川間の開通で近隣市町村との連絡も容易になった。

明治末期から大正期にかけ、榎津尋常小学校、榎津高等小学校、三潴郡役所(明治35年、1902年)が出来、郡の有志中村綱次氏は私立淑徳技芸女学館、後の三潴郡立技芸女学校(大正2年、1913年)を設けた、福岡県立三潴高等女學校(大正10年)が設立され、三潴軌道の分岐点(駅)が榎津東町の交差点横に出来(廃止後は大川デパート建立)三潴郡の文教、行政、商業の中心地となりました。(因みに当時の筑後地方の人口は久留米市32,559人、大牟田町13,461人、大川町11.214人)

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さて当家の祖父、森留吉(トメキチ)御井郡上津荒木藤山の地に、明治25年3月13日森萬平の三男として生まれる。
上津荒木(コウダラキと読みます)は、筑後国一の宮、高良大社を祭ってある高良山のふもとから高良台、岩戸山古墳などが在る丘陵地帯です、ここに筑後国府や大宰府にいたる古道、藤山道が通っており、薩摩坊ノ津街道と近くで交差しています。
現在では国道3号線と高速道が立体交差する野添、湯乃楚周辺です。北は神代ノ渡し、御井府中を通って八女郡の福島町に至ります。ちょうど峠の茶屋(店)という風情(ふぜい)で八女地方や近隣の産物果実類等を取りまとめて久留米市内の料亭等と商いをしていたようです。

肉の美好

叔父たちに尋ねると先祖は山賊だったろうと冗談で話します。生き馬の目を抜くような素早さ目利きは、どの叔父達たちも持ち合わせているので、そうかなという気もします(笑)。

国分村に、明治29年陸軍歩兵第48連隊が新設され、歩兵第24旅団司令部、久留米衛戍(えいじゅ)病院等の軍施設が出来、明治43年には第18師団設立。陸軍省は明治44年9月、上津荒木村一帯約100萬坪を第18師団の演習場とした(後の高良台演習場)、明治44年11月、明治天皇を御迎えして陸軍特別大演習がこの地で行われました。
このように久留米は一大軍都となり、若き留吉は、将校幹部らの暮らし振りや陸軍の物資の調達力、軍事施設へ商品納入、軍都の街の昼と夜との賑わい振り等、脳裏にしっかり刻みこんだことだと想像します。

明治36年(1903年)京都帝国大学福岡医科大学が筑紫郡千代村堅粕(箱崎)に開校、(明治43年、九州帝国大学医科大学と改称)。
併設看護婦養成所で祖母 村石ソメ は看護学、衛生学等を習得。
前述した久留米衛戍病院(陸軍病院)に奉職。剛毅豪胆青年 森留吉、国分村の第48連隊や軍事施設に出入りするうち、一等明瞭な乙女 村石ソメ を見初め結ばれる。
明治45年/大正元年(1912年)、長子 森一男(かずお) 生まれる。
大正3年8月 日英同盟により第一次世界大戦に参戦、ドイツ租借地 膠州湾にある青島(チンタオ)半島を攻略、日本軍は久留米の陸軍第18師団を中心に参戦するが、祖父 留吉は視覚聴覚即ち五感が優れていたため帝國海軍、佐世保鎮守府より戦艦敷島にて出兵、凛々しき水兵服姿の写真が現存しています。

肉の美好

同 大正3年11月7日青島要塞が陥落し帰国する。留吉は三男ゆえいずれ分家せざるを得ず、前述したようにソメの故郷大川町榎津界隈の賑わい、交通網の拠点、三潴郡の行政、文京、商業の中心、高良大社の末社風浪宮が祭ってあること、若津弥生町に遊郭があり、芸者置き場があることと、村石家家族の扶養等など考慮し榎津東町三潴軌道分岐点(駅)に居を構える。

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