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九 日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)

昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋事件勃発、9月2日支那事変と改称。森三男、昭和13年(1938年)久留米第48より抗州湾上陸作戦に出征、上海、南京、広東、南寧と転戦。軍功誉れ高く、部隊長の賞辞(賞状)を頂き昭和16年(1941年)6月29日除隊、弾丸飛び交う中、果敢に敵陣に切り込み「肉弾三勇士」に負けずと任務遂行したと思います。
父留吉に一番に報告し喜んで貰おうと勇んで7月1日帰宅するが様子がおかしく問いただすと、非情にも「留吉父ちゃんはきのう亡くなった(6月31日)。」聞くや否や悔しさと歯がゆさで、怒ること、狂うこと、何でもかんでも投げつけ、暫らく手がつけられなかったそうです。戦地でならやむを得ぬが久留米の連隊まで帰って来ており、一報したら飛んでくるのにと、父の歯がゆさ悔しさ残念無念の心境はいたく想像できます。(軍の機密上任務地は極秘事項連絡不可)
日独伊三国同盟、対日経済包囲網ABCDライン、昭和16年12月8日太平洋戦争(大東亜戦争)開戦、生活物資の統制配給制になる、久留米市内の高等料理店30店廃業、この戦時下では料理屋美好は休業、昭和18年(1943年)8月長兄森一男死亡、父三男も再招集久留米第18師団(菊兵団)の中核部隊歩兵第56連隊に所属、インパール侵攻作戦時の助功隊として長期間阻止する任務でビルマ雲南方面に出征、戦況は厳しく生還せぬ覚悟でした。昭和19年(1944年)サイパン島玉砕、日本中がB29の爆撃圏内に入る、グアム島玉砕、父は菊兵団の部隊編成により本土防衛部隊として転属、同年9月13日ビルマ雲南守備隊玉砕、昭和20年(1945年)6月太刀洗陸軍飛行場で神風特功隊のB29撃墜配置計画と本土防衛部隊に配属、8月7日大牟田市空襲8月11日久留米市空襲、佐賀県諸富の味の素工場も米軍のグラマン戦闘機により空襲を受け、当大川デパートも機銃掃射を受ける(その時の20口径弾丸と薬きょうが残っています)。8月15日終戦、間一髪まさしく九死に一生にて帰還する。
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