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十 為森三男君 男無私欲 沃火 活水

肉の美好

 この為書きは、頭山満翁と親しく孫文とも親交がある大陸浪人政治家の玄洋社社員、
末永節(みさお)先生より書いて頂いたものです。

 父は三男坊で家督を継ぐ必要も無く、玄洋社のアジア主義に憧れており、
狭い日本よりいずれ大陸に渡り思う存分働きたいという大志を抱いていました、
それで末永先生とご縁があったと思います。

 復員して来たものの村石家の家族5人、自分の弟姉妹、兄の家族8人計13人を抱えて
暮らすにはかしわ店で生計を立てて行かざるを得ません。戦中戦後の食糧事情は悪く
食料の遅配欠配は当たり前で、栄養失調からくる結核は不治の病と云はれ牛乳や卵は
貴重品で薬代わりでしたし、かしわ(鶏肉)も数少ない蛋白源(栄養源)でした。
佐賀の諸富や早津江からも渡し舟に乗って買いに来てもらっていましたし、
農家の方は米を持ってきて分けてくれ(物々交換)等と多くのお客さんに恵まれ、
家族全員で働きました。  

 料理屋時代も、お客さんの求めに応じて牛鍋、すき焼きなど肉屋さんから仕入れてきて
出していたようで、それを知っているお客さんから牛肉はないかと尋ねられ、
売ってくれと頼まれることが多くなりました。 
 
 だが、当時も仏教の教えによる忌み感は強く、封建制の職業偏見も根強く、
祖母ソメも、父・三男も家族も取り扱うことに大いに苦衷、逡巡しました。
医薬品が足りず、栄養失調や肺炎による衰弱死、前途ある青年うら若き子女らが吐血し、
悲しみながら亡くなっていく様子を見、「医食同源」「滋味栄養」と病を治癒し回復する
薬代わりになり、体力造り回復に少しでも役に立てばと考え直し、
取り扱うようになりました。

 蒸気機関車みたいな大きな冷蔵機械を備え付けた冷蔵庫を作り、食肉類も扱うようになりました。料理屋時代に世話になった肉屋さんから分けてもらい、父が「松源」で修行の時捌き方など習得していたのでそれは役に立ちました、終戦後はみんな生きていくのに必死でした。
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