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十一 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

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昭和30年から40年代になると安定成長期になり父も大川百貨サービス理事長(月賦販売、現代のクレッジト会社の先駆、個人の資産を提供し運営)大川信用金庫総代、大川商工会議所議員、大川商店連合会会長と公私にわたり活躍し、来る者拒まずいろんな人が出入りしていました、父は大欲を持っていまして人の喜ばれる姿を見て自分も欣ぶ(よろこぶ)という無償の心の欲で、二三逸話を紹介します。 
?移動しながら陶器類を売って暮らしている家族がおられました、暗くなり娘さん3人がワラの中にもぐって寝ようとする様子を見て、自宅に連れて来て風呂に入れてやり、家族と一緒に食事をして、自分の娘達と一緒に布団の中に休ませ泊めたことがありました、台湾籍の方でご恩は忘れませんと感謝され涙ながら別地に行かれました、後日成功して店を構えるようになられ、「森三男先生謝謝」とお礼の手紙をいただきました。姉が結婚する時びっくりするような陶器類をお祝いに戴きました。
?隣に飲み屋さんがあり、気に入らないことがあったのか店内で大暴れして何でも投げ倒し大騒動になりました、普通そこで止めに入るけど父は逆に「騒がんでもっと飲め腹いっぱい飲め」とけしかけ、酔いつぶれると胸倉を掴みパンパンとビンタを食らわせ又飲ませますもう飲めんと弱音をはくと、貴様これくらいの酒で騒ぐなと諭します、この親父は他の者と違うと思ったのか「おっちゃん、おっちゃん」と懐き、よく遊びに来るようになりました。
?近くにパチンコ店があり玉の出が悪いと、カッとなりいすで台を叩き割り次々に壊し大暴れとなりました、父の出番で止めると逆効果で気の済むまで暴れさせます、落ち着いたころ一杯飲ませ出が悪いときは俺のとこへ来いと何がしか遣っていたようです、その後ある事件を起こし久留米検察庁に仮釈放の身元引受人として呼ばれました、父を頼りにしたのだと思います、「親父、一人殺すも二人殺すも同じこと、なんかあったら俺に云ってくれ」とすっかり心酔していました。?ある方が大川信用金庫に勤められることに
なり身元保証人が必要となり困っておられました、すると信用金庫のほうから森さんに頼みなさいと助言され、「面識も無いのにおそるおそる相談に行ったところ、宜しいと一諾」何と剛胆な方だと私の方がびっくりしました、生活がかかっていたので助かりましたお蔭様で定年まで勤めることが出来ました、本当に感謝しています。」と父の霊前で泣きながら話して戴きました。
いずれも父の度量を推し量る話です。
昭和29年1町5カ村合併(大川の父、福岡県議会の大御所)添田雷四郎町長より龍野喜一郎氏初代市長となり3期つとめられる、2期目の助役が古賀杉夫氏(後の柳川市長、衆議院議員古賀一成氏の父)3期目の助役が古賀龍生、龍野市長は後継市長に助役ではなく中村太次郎氏を指名、第4代市長に当選(この後継人選が鍵、後年、何故か分かる)
余談 添田雷四郎氏の甥(姉琴子長男)が山崎達之輔(農林大臣逓信大臣)、山崎巌(内務大臣自治大臣)、山崎平八郎(国土庁長官)、これぞ世に言う山崎三代のこと、郷土の誇りです、大川は僻地ゆえ大臣級の代議士をもっとかないと取り残される。
 昭和45年秋、大川市はある量販店と随時契約により旧市役所跡地を売却することにしていた、ある会員がそれを聞きつけ建白書なるものを大川市に提出した、それには連合会会長森三男名で出されていたが父は知らなかった、内容は大型店が出店したら困るという内容だったらしい、大川市は跡地を処分した代金を新市庁舎建設費に充当し、出来るだけ市民の税金を使わないよう議会に報告していたので、会に具体的な利用方法と資金調達計画を作り、12月議会に請願書を出すよう要望、しかし商店会は売り出しを共同でするくらいで会員も定かではなく会費もまちまちで受け皿の体をなしておらず、当事者能力はない様でした。そんな訳で12月議会は継続審議となり留保、「法人格のある協同組合を作り売買代金を準備するよう」市側は要請。父はその旨会員に伝えるが無関心でまとまらず、46年の3月議会が始まる、一般質問で市役所跡地はどうなったかと聞かれる、中村市長は森三男会長が懸命に努力されているので今しばらく様子を見たいとの答弁、父の方も会員に催促するがまとまらないまま月日は経ち、6月議会が始まる、中村市長は少数与党であるため質問攻めに遭う、ここまで長引くと普通審議未了廃案となり却下される、となると売却代金は入ってこず議会との約束はどうなるかと責められ中村市長は窮地に陥り、さらには責任問題となり進退問題となり野党側の思う壺となる、“清廉潔白”な中村太次郎氏を龍野喜一郎前市長が何ゆえ何のため後継指名したか意味が無くなる。ご存知のように中村太次郎市長は当時の清力酒造の社長であり岳父中村綱次氏は先々代社長で私財を提供し大川町のため寄与、活躍された奇特家です。
 9月議会にはいよいよ結論を出さなければならず市の執行部も焦り困り果て、庶務課長はひと目を避けるようにして自宅へ日参し、協同組合が出来る可能性、支払い代金のめどなど経過を聞きに来ていました。127名も会員がいるから一人当たり約60万円分担すれば売買代金は調達できる計算だが、金まで出して参加したくないという利己心でまとまらず、父も困り果て窮地に陥っていました。中村太次郎市長と父森三男とは市長選挙を通じてお互いに深い信頼関係にありました、それゆえ今日まで議会で追いこまれながらも父のため待たれ、森さんなら何とかしてくれると信頼されていました、父も重々その温情を承知しているが、高血圧で2回倒れていて健康面の不安もあり苦渋していました、出来るなら請願不採択で廃案になって欲しいと悩んでいました。しかし9月議会が迫っており、市長室で(46年7月14日)市長、助役、庶務課長、管財係長、当方からは森三男、保証人予定の方(市の方から指定)おいで下さいとのことで、市の案を提示され質疑協議しました。内容は買受人 連合会会長森三男、保証人は連合会の副会長達では無く(会は信用性が無く支払い能力が無いと認識されていたのか)、父と個人的な関係ある鶴英男氏、同じく個人関係の竜昇一氏(8月事故で死亡)立会人同じく個人関係の岡野辛一郎氏、この方々は市長選を通じて中村太次郎氏を支持応援し、中村市長も信頼している人達です、このメンバーなら何とか出来ると市長も考えられたと思います。数日後父は体調が悪く臥していました、枕元にて竜さん鶴さんと話し合っていました、この3人だったら出来ると父も決断しました、ここまで来て逃げたら卑怯者といわれ、父が一番嫌いな言葉です。しかし8月23日竜昇一氏は交通事故で亡くなられ、9月13日助役室で助役、庶務課長、管財係長、建設課長と、森三男、保証人予定の鶴英男氏で文案を検討する、竜さんのこともあり「森さんが途中で亡くなった場合はどうするか、森さんが会長を辞めた場合はどうなるのか」と質問、市側の答えは「森さんの死後は法定相続人である家族が引き継ぐ、会長辞任の場合でも前連合会会長森三男として名前は残り代金支払い等の責務は最後まで残る」と、これは庶務課長が答え助役が確認、これを聞いて買受人は森三男個人だと考え、大金ではあるし保証被りのおそれが大きく親族会議の末決心、この場に市長は居らず翌14日森、鶴氏、岡野氏と3人で市長の自宅を訪問、前日の応答を確認、市長は「助役たちの言っている通りだ」と返答「請願の手前、出来得れば協同組合を設立し、そちらに移行して貰えないか」と話されていたそうです。
 昭和46年9月18日売買契約締結、9月議会にぎりぎり間に合う、森三男個人の土地を担保に差し入れ信用金庫から融資を受けて保証金650万円を支払う、大川市の方から庶務課長も同行し料亭に一席設ける(市が接待することなど前代未聞)。中村市長はさぞかし安堵されたことだと思います。
忠義を重んじるのは清和源氏末裔の武士(もののふ)村石家の血か。
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