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十二 讒言 菅原道真公の嘆きもかくや

父は早速、連合会臨時総会を招集し経緯を説明、協同組合を作ってくれと要請、大川商店連合会とは若津、若冶、銀座、中央商店会の連合体で事業目的など無く、大売出しを一緒にやろうということで作った団体ですが、来たる昭和47年(1972年)3月31日が1回目の支払日だから急ぐよう催促、しかしまたもや非協力で昭和47年3月31日、土地を担保にして1,250万円借り大川市に支払う、更に会に催促するがまとまらず又一年たち昭和48年3月31日同様に2回目の代金1,260万円借りて市に支払う、借入金だから当然利息が発生します、利息支払い用に更に450万円借り入れする。昭和48年11月臨時総会を開いて組合設立趣意書を作る、若津若治商店会は地理的に離れているから最初から加入しない、昭和49年(1974年)2月銀座商店会から組合加入辞退届け提出、残るは中央商店会だけだから3月31日までに返答するよう催告、市も父が苦労しているのをよく承知しており、跡地を駐車場にして少しでも支払利息の足しにするようにと配慮してもらう、昭和49年3月31日の3回分支払いは交差点改良事業として道路拡幅分の売却代金を充当し5月31日付けで支払い相殺して配慮してもらう。
 中学2年の時父が高血圧で倒れ、家業の手助けにと高校1年16才の時学校の帰り自動車学校に行き軽四輪の免許を取る、18才の時、小生この市役所跡地代金6,650万円の支払い債務を負う、利息がかさみ家のほうから補填しないと足らないようになってきました、無駄な出費は極力抑え利息に回さざるを得ません、成人式も背広など買えず親父のお古の羽織袴で行きました、当時着物は禁止されていたので目だったのか壇上の中村市長も苦笑い。
 個人的に色々画策する会員もいたが、市はあなた達ではだめ、森さん達三人が中心でないと認めないと相手にせず、結局市が心配したとおり組合は出来なかった、だが4回目の支払いが迫っており金融機関に相談に行くがこれ以上の融資は出来ないとの返事、金策が出来ないとなると今まで納入した代金は没収、金融機関にも返済できなくなり当方の被害は膨大なものとなる、孤軍奮闘すれどもまさしく四面楚歌、市に支払いの延期の相談に行くが、払う当てはなくまだあと3,050万円残債があり、絶体絶命、眠られない日が続きました、こういうストレスが血圧に一番悪くまた体調を壊し暫く寝込んでいました、そのとき地場の大手銀行から残債を一括融資します、市に払った後土地を貸してもらえないかという相談に見えました、キーテナントに大型店を誘致し地元の希望者の方も出店して下さいとのことでした、ちょうど福岡県の大川商店街診断勧告書に大型店を中心とした買い回りゾーンを造り商店街の核にするよう勧告されていたので,父は賛同し経費もろもろ3,700万円を融資してもらい、大川市に払い所有権移転登記を済ませ登記権利書を貰いました市からは「本当に長い間ご苦労様でした」とねぎらいと感謝の言葉をかけてもらいました。父も責任を果たしほっとするが今度は跡地を利用して借入金の返済に着手せねばならず、結局協同組合は出来なかったが別の形で土地建物の管理会社なり作りそちらの方に譲りたいと考えていました。診断書に基付いた核店舗のプランを発表し希望者を募ったら、大騒ぎになりいつ所有者が森三男になったか、払い下げは誰にしたのか、自分たちは知らなかった背任横領だと集団でプラカードを持って市に押しかけマイクで騒ぎ立てる、役所はこういう集団示威行動には弱く「請願は出しただけ、後は知らん振り、お金も出さない、森さん一人に責任負わせ、あなた達は勝手すぎる、心から謝り、誠意を持って相談に行きなさい」と本当のことを言えばよいが「請願は連合会であったと認識している、登記は任意団体であるので代表者名の森三男でしか出来なかった」とお役所答弁で口濁す責任逃れの腰抜け木っ端役人気質。その言葉質を御旗に燕雀どもは雷同する、「請願は自分達が出したから土地は自分達の物、登記は方法がないから名前を借りただけ、代金は森三男が勝手に立替払いしているだけ、駐車料は利息をつけて返せ」と主張。

昭和51年4月中村太次郎市長が逝去

昭和51年5月古賀龍生市長になる

昭和51年9月処分禁止の仮処分申請、
 債権者 連合会 債務者 森三男

昭和51年12月所有権移転登記抹消請求事件
 原告 商店連合会  被告 森三男

マスコミも、裁判所も政治的背景とか知る由もなく市の発言を鵜呑みにする、裁判官は「今もって協同組合も作って無いのですか、土地代金も用意して無いのですか」とあきれ返るが、原告に有利になるような現職市長の公印の押された文書を証拠として次々に提出する、公文書は私製文書より証拠力がはるかに強く、前庶務課長(現収入役)は法廷にて証人尋問を受けるが「記憶に有りません」の一点張り、父は個々の会員とは長年一緒にやってきた仲間ですし、さほど立腹しておらず、煽動しているのが以前から色々工作して土地を手に入れようとして、前中村市長から「あなた達ではだめだ」と拒絶された連中で「信頼していた森会長に騙された個人的な付き合いも買い物もこの3人の店でしないよう」と街宣車で町中流すが、いつものやり方だと知っているので腹は立つが無視。しかし前庶務課長には怒りが収まらず、「前中村市長の命を受け連中の目を避けるよう日参し、泣き付いて懇願したのをもう忘れたのか、それで収入役が務まるのか、二君に仕える奸臣め、世が世なら日本刀でぶった切ってやる」とそれは歯噛し憤慨していました、父曰く「色々経緯はあったものの森さんのご苦労のお陰で市は助かりました」それだけでよい、土地が欲しくて奮迅したのではない、責任を果たしただけだ。
「為森三男君 男無私欲 沃火 活水」
平安時代菅原道真公、讒言により大宰府に流される京の都は恐れおののく不吉なことが起こる藤原時平若くして亡くなる。現在の大川市人口約3万8千人市勢無く商店街も空き家閑古鳥。
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