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十三 袖に涙がかかる時、人の心の奥ぞ知られける

昭和52年頃は借入金が約1億円近くになり毎月の支払い利息約100万円、捻出するのに四苦八苦,店が8時頃終わりそれから利息の足しにと駐車場の番に12時頃まで行く、暖を取る灯油も買えず木炭火鉢暮し、電灯も勿体無くろうそく懐中電灯で明かりを取る、風呂を沸かす石炭も節約、見かねて木工所の方が木切れをくれる、ズボンも継ぎだらけ祖母ソメが年金から茂にズボンを買ってやってくれとこっそり渡す。訴訟費用も桁違いのお金が架り数ヶ月に1回しか法廷は開かれず遅々として進まず、うちだけ戦時中のように欲しがりませんと耐乏生活、父曰く「臥薪嘗胆、艱難辛苦汝玉にする」。
見るに見かねて大川商工会議所の副会頭、江藤展吉氏「森さん、あなたが遣ってきた事は心ある多くの市民は分かっている人間の器量が違いすぎる、こんな連中を相手にするな、会議所に任せろ」と説得。父と江藤副会頭とは3号議員で供に監事で江藤氏は特功隊上がり、肝胆相照らす仲、気性も似ており理不尽な事には引かない性格で江藤さんのなだめ役が父で、他の人が説得しても譲らない。今度は江藤さんがなだめ役、「多くの市民は森さんの人柄を理解している、世の中にこんな理不尽なことがあるかと腹を立てている」との言葉にあとは江藤君に委ねようと決心。朝鮮の役で深く結ばれた加藤清正と立花宗茂の、慶長5年、三橋中山散田黒衣での清正公の勧告に宗茂公の決意する場面も斯く在りや。
時に昭和55年小生30才、多くの方からよく耐え忍んだな、何かあったら相談に来いと激励してもらう、病院の理事長夫妻からも自分たちも応援するから頑張り努力しなさいと言葉をかけて頂く、本当に多くの方から励ましていただく。以来、朝に朝星、夜に夜星と精進して御陰様でやっと今日まで来ることが出来ました。
伝え聞くところによると元収入役の方はその後、精気無く成られ、歩くことかなわぬように成られ、いつの時か亡くなられたそうです。
今までは巧く立ち回ってこられたが、ついに県議会選挙買収事件に絡み晩節90数歳で八女検察庁にて長期間取調べを受け、元市長ゆえ行政の功あり高齢でもあり罪一等免じ起訴猶予処分、巷間数年前寂しく亡くなられたそうです。
新人物往来社、森一族のすべてより「森家は久留米市内が発祥の地、家紋は男紋が[丸に剣梅鉢]で厳寒に万花に先駆けて咲く梅と、世の悪に剣を取って立ち向かう志の高さとを先祖が子孫に伝えたいと思ってこの紋を選んだのではないか」森キクヨ談より。
昭和59年小保別当職吉原家と縁戚になる、当主、吉原正俊氏「とうとう親戚になりましたのう」と大いに喜ばれる。
時代の流れで留吉翁の「美好」の構想は変わらざるを得なかったが、志を引き継ぎ、美味しかったと喜んで貰うよう、お客さんの要望にあった食材を選び抜いて提供するよう心掛けています。 「美味愛好」
天文5年(1536年)村石家下向して475年。
明治44年祖父留吉、祖母ソメ縁有りて100年。

文責 森 茂
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