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二、 三潴郡大川町榎津の発展

18世紀に久留米藩が若津港、柳川藩が住吉港を築港し若津地区は港町として繁栄していた。
榎津地区は殆どが農地、田圃ばかりで明治12年(1879年)明治橋が出来ると次第に町並みが出来てきた。明治24年(1891年)久留米〜若津町間に九州鉄道(鹿児島本線)が路線を設定するが地元の賛同が得られず、大川町を通らず遠く離れた羽犬塚を通ることになった。明治41年(1908年)三池港が出来ると若津港は次第に衰退してきた。同年大川〜羽犬塚間の三潴軌道が開通し、電燈、電話の敷設といった運輸、通信面の変革期が到来した。陸の孤島となるのを危惧し中村綱次氏(合名会社清力商店)らの肝いりで若津〜久留米間の大川鐵道が開通した(大正元年、1912年)。大正3年(1914年)には三潴軌道支線の若津〜柳川間の開通で近隣市町村との連絡も容易になった。

明治末期から大正期にかけ、榎津尋常小学校、榎津高等小学校、三潴郡役所(明治35年、1902年)が出来、郡の有志中村綱次氏は私立淑徳技芸女学館、後の三潴郡立技芸女学校(大正2年、1913年)を設けた、福岡県立三潴高等女學校(大正10年)が設立され、三潴軌道の分岐点(駅)が榎津東町の交差点横に出来(廃止後は大川デパート建立)三潴郡の文教、行政、商業の中心地となりました。(因みに当時の筑後地方の人口は久留米市32,559人、大牟田町13,461人、大川町11.214人)

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