当家の祖母方の先祖は村石と云う姓です。室町幕府、十二代将軍足利義晴の家臣榎津遠江守の家臣団として、天文五年(1536年)榎津久米之介(願蓮寺創始者)等と供に鎧兜、武具一切を携え、京よりこの地に住まうようになりました。(願蓮寺所蔵古文書より)
しかしこの当時、筑後、三潴地方は蒲池、大友、龍造寺、島津氏らの戦国時代が続き、
家臣らは逼塞(ひっそく)し、工商をなしながら暮らしていました。
当家祖母ソメの父、村石林蔵(江戸末期 天保七年(1836年)生まれ)はこの家臣の末裔で、彫刻師村石繁太郎(通称繁蔵、天保五年生まれ)とは一門、同族であります、繁蔵は久留米市梅林寺の唐門(勅旨門)の彫刻、久留米市草野町須佐能哀神社の本殿、拝殿、楼門の彫刻、榎津水入町天満宮本殿の彫刻などの名作を残しています。
林蔵も大工としての腕は良かったそうですが、あいにくと長男を早く亡くし跡継ぎが居らず娘ばかり五人が残り、そのなかでも四女の村石ソメ(明治26年(1893年)9月4日生まれ)は明達で思慮深く、近辺でも評判の娘だったそうです、「ソメが男だったら」と林蔵は常々悔やんでいたそうです。この村石ソメ、のちの森ソメが、当家の祖母です。
しかしこの当時、筑後、三潴地方は蒲池、大友、龍造寺、島津氏らの戦国時代が続き、
家臣らは逼塞(ひっそく)し、工商をなしながら暮らしていました。
当家祖母ソメの父、村石林蔵(江戸末期 天保七年(1836年)生まれ)はこの家臣の末裔で、彫刻師村石繁太郎(通称繁蔵、天保五年生まれ)とは一門、同族であります、繁蔵は久留米市梅林寺の唐門(勅旨門)の彫刻、久留米市草野町須佐能哀神社の本殿、拝殿、楼門の彫刻、榎津水入町天満宮本殿の彫刻などの名作を残しています。
林蔵も大工としての腕は良かったそうですが、あいにくと長男を早く亡くし跡継ぎが居らず娘ばかり五人が残り、そのなかでも四女の村石ソメ(明治26年(1893年)9月4日生まれ)は明達で思慮深く、近辺でも評判の娘だったそうです、「ソメが男だったら」と林蔵は常々悔やんでいたそうです。この村石ソメ、のちの森ソメが、当家の祖母です。