美好の歴史 目次

はじめから読む

一、 ご当地とのゆかり
二、 三潴郡大川町榎津の発展
三、 剛毅豪胆 祖父森留吉伝
四、 久留市軍都となる
五、 森留吉と村石ソメ運命の出会い
六、 屋号「美好」の由来
七、 人力車に揺られて芸者さんが通る美好料理屋から花の金一封
八、 大川デパート建立
九、 支那事変、大東亜戦争
十、 為森三男君 男無私欲 沃火 活水
十一、 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
十二、 讒言 菅原道真公の嘆きもかくや
十三、 袖に涙がかかる時、人の心の奥ぞ知られける

当家の祖母方の先祖は村石と云う姓です。室町幕府、十二代将軍足利義晴の家臣榎津遠江守の家臣団として、天文五年(1536年)榎津久米之介(願蓮寺創始者)等と供に鎧兜、武具一切を携え、京よりこの地に住まうようになりました。(願蓮寺所蔵古文書より)

しかしこの当時、筑後、三潴地方は蒲池、大友、龍造寺、島津氏らの戦国時代が続き、
家臣らは逼塞(ひっそく)し、工商をなしながら暮らしていました。

当家祖母ソメの父、村石林蔵(江戸末期 天保七年(1836年)生まれ)はこの家臣の末裔で、彫刻師村石繁太郎(通称繁蔵、天保五年生まれ)とは一門、同族であります、繁蔵は久留米市梅林寺の唐門(勅旨門)の彫刻、久留米市草野町須佐能哀神社の本殿、拝殿、楼門の彫刻、榎津水入町天満宮本殿の彫刻などの名作を残しています。

林蔵も大工としての腕は良かったそうですが、あいにくと長男を早く亡くし跡継ぎが居らず娘ばかり五人が残り、そのなかでも四女の村石ソメ(明治26年(1893年)9月4日生まれ)は明達で思慮深く、近辺でも評判の娘だったそうです、「ソメが男だったら」と林蔵は常々悔やんでいたそうです。この村石ソメ、のちの森ソメが、当家の祖母です。

肉の美好

18世紀に久留米藩が若津港、柳川藩が住吉港を築港し若津地区は港町として繁栄していた。
榎津地区は殆どが農地、田圃ばかりで明治12年(1879年)明治橋が出来ると次第に町並みが出来てきた。明治24年(1891年)久留米〜若津町間に九州鉄道(鹿児島本線)が路線を設定するが地元の賛同が得られず、大川町を通らず遠く離れた羽犬塚を通ることになった。明治41年(1908年)三池港が出来ると若津港は次第に衰退してきた。同年大川〜羽犬塚間の三潴軌道が開通し、電燈、電話の敷設といった運輸、通信面の変革期が到来した。陸の孤島となるのを危惧し中村綱次氏(合名会社清力商店)らの肝いりで若津〜久留米間の大川鐵道が開通した(大正元年、1912年)。大正3年(1914年)には三潴軌道支線の若津〜柳川間の開通で近隣市町村との連絡も容易になった。

明治末期から大正期にかけ、榎津尋常小学校、榎津高等小学校、三潴郡役所(明治35年、1902年)が出来、郡の有志中村綱次氏は私立淑徳技芸女学館、後の三潴郡立技芸女学校(大正2年、1913年)を設けた、福岡県立三潴高等女學校(大正10年)が設立され、三潴軌道の分岐点(駅)が榎津東町の交差点横に出来(廃止後は大川デパート建立)三潴郡の文教、行政、商業の中心地となりました。(因みに当時の筑後地方の人口は久留米市32,559人、大牟田町13,461人、大川町11.214人)

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さて当家の祖父、森留吉(トメキチ)御井郡上津荒木藤山の地に、明治25年3月13日森萬平の三男として生まれる。
上津荒木(コウダラキと読みます)は、筑後国一の宮、高良大社を祭ってある高良山のふもとから高良台、岩戸山古墳などが在る丘陵地帯です、ここに筑後国府や大宰府にいたる古道、藤山道が通っており、薩摩坊ノ津街道と近くで交差しています。
現在では国道3号線と高速道が立体交差する野添、湯乃楚周辺です。北は神代ノ渡し、御井府中を通って八女郡の福島町に至ります。ちょうど峠の茶屋(店)という風情(ふぜい)で八女地方や近隣の産物果実類等を取りまとめて久留米市内の料亭等と商いをしていたようです。

肉の美好

叔父たちに尋ねると先祖は山賊だったろうと冗談で話します。生き馬の目を抜くような素早さ目利きは、どの叔父達たちも持ち合わせているので、そうかなという気もします(笑)。

国分村に、明治29年陸軍歩兵第48連隊が新設され、歩兵第24旅団司令部、久留米衛戍(えいじゅ)病院等の軍施設が出来、明治43年には第18師団設立。陸軍省は明治44年9月、上津荒木村一帯約100萬坪を第18師団の演習場とした(後の高良台演習場)、明治44年11月、明治天皇を御迎えして陸軍特別大演習がこの地で行われました。
このように久留米は一大軍都となり、若き留吉は、将校幹部らの暮らし振りや陸軍の物資の調達力、軍事施設へ商品納入、軍都の街の昼と夜との賑わい振り等、脳裏にしっかり刻みこんだことだと想像します。

明治36年(1903年)京都帝国大学福岡医科大学が筑紫郡千代村堅粕(箱崎)に開校、(明治43年、九州帝国大学医科大学と改称)。
併設看護婦養成所で祖母 村石ソメ は看護学、衛生学等を習得。
前述した久留米衛戍病院(陸軍病院)に奉職。剛毅豪胆青年 森留吉、国分村の第48連隊や軍事施設に出入りするうち、一等明瞭な乙女 村石ソメ を見初め結ばれる。
明治45年/大正元年(1912年)、長子 森一男(かずお) 生まれる。
大正3年8月 日英同盟により第一次世界大戦に参戦、ドイツ租借地 膠州湾にある青島(チンタオ)半島を攻略、日本軍は久留米の陸軍第18師団を中心に参戦するが、祖父 留吉は視覚聴覚即ち五感が優れていたため帝國海軍、佐世保鎮守府より戦艦敷島にて出兵、凛々しき水兵服姿の写真が現存しています。

肉の美好

同 大正3年11月7日青島要塞が陥落し帰国する。留吉は三男ゆえいずれ分家せざるを得ず、前述したようにソメの故郷大川町榎津界隈の賑わい、交通網の拠点、三潴郡の行政、文京、商業の中心、高良大社の末社風浪宮が祭ってあること、若津弥生町に遊郭があり、芸者置き場があることと、村石家家族の扶養等など考慮し榎津東町三潴軌道分岐点(駅)に居を構える。

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当時の庶民の楽しみは少なく、お風浪さん祭りは大賑わいで近隣の町や村、羽犬塚、久留米、佐賀諸富からは渡し舟でお参りに来、列をなし身動きも出来ず朝から晩まで参拝客であふれていた。

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留吉は当然計算済みで1週間くらい前から八女地方より荷車、車力で大量に山のように串の柿を仕入れて来ており、近所の人がど肝を抜かしたそうです、境内であっという間に売れて無くなり、さらに仕入れては売り尽くし、資金を造る、近所の古老は「留吉さんのさすことはとにかくたまげた」と話してくれます。

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次男、茂樹は幼くしてなくなり、父・森三男大正6年11月3日、
明治の慶節に参男として生まれる、この頃は「森商店」と言っていたそうです。

交通の拠点というこの立地に、留吉は日々商いが出来る料亭料理屋を構想しており、
持っていた電話番号が大川町344番だったので覚えやすい「みよし」と着想、
縁起がよい吉の画数15文字で「美好(みよし)」と命名、
美し(うまし)好(よし)という思いを込めて、屋号とする。
森商店から料理亭「美好」として大正8年(1917年)発展創業する。

料理屋と言っても留吉がすることは尋常ではなく、魚貝類は河海が近いので市場より仕入れ、主にうなぎ飯、セイロ、蒲焼、スッポン料理などを供していたそうです。ところが川魚は冬になると冬眠するので冬場の献立を考えねばなりません、久留米の料亭に出入りしていたので鳥料理を考えており、入手先も知っていました。当時ハレ(晴れ、祝い)の日だけしか食べることが無かった、“かしわ”(鶏)を料理に使う計画でした。親子丼、茶碗蒸しは年中の献立で、冬場の鍋物として水炊き料理を供していました。魚や、うなぎ、かしわは板場さんたちが捌いていましたが、冷蔵庫が無く氷柱で冷やし保存していた時代ですので、鮮度を保つにはかしわをそのまま小売り販売し入れ替わりを良くして、新鮮な材料で料理するようにと考えていました。お客さんもハレの日の食べ物が手に入るので重宝がられていました、一挙三得という按配でこちらの方を「森かしわ店」と呼んでいました。今のテイクアウト方式ですが当時では斬新な着想だったと感心させられます。

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・・・・「夕方になると検番から置屋に電話がかかり(当時一部ですが電話はありました)、着飾った芸者さんが三味線箱を横に、人力車に揺られて呼ばれた料理屋やご祝儀の座に向かっていました。今の美好肉屋も当時、美好料理屋の屋号で料理屋をやっていました。お正月になると、“初おこし”で芸者衆が黒紋付の裾模様で縁起舞を披露してやり、美好料理屋が花の金一封の熨斗袋を与えておられました。私は一番前で見ていました。芸者衆さんは大変綺麗な化粧や衣装姿で踊られるので、私も芸者さんになろうかなと思ったりしました。」・・・(大正11年生、池上トシミ様談、ふるさと東町回顧録より)
 お役人さんや偉い人達は、打ち合わせ会議が多く会席食事となり後は宴席となり興がのってくると若津弥生町の検番に、この「三四四番」の電話で手動式のハンドルを数回廻し、交換台にまずつなぎそれから検番につながり、芸者さんを何人と頼み先程の人力車で当店に来て時間制で歌や踊りを披露し座を賑わせていました、その時間を計るのも時計などの野暮なものではなく、線香(約40分)何本と言う優雅な計り方でした。当時の鼓(つずみ)や琴、美好の銘入りの器、漆塗りの器など今もあります。久留米の将校さんや役人さんの遊びを熟知していたので、飲食だけではなく付加価値を付け収益を高める目論見だったのでしょう、それにしても当時の情緒ある賑わい、優雅な風情が目に浮かびます。

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お客さんが駆け込むと人手が足らず、留吉は近くの高等小学校に行っている父三男を授業中でも呼びに行かせ帰ってこらせて加勢させていました、気性、性格も自分に似ており素早くこなすので気に入っていました、後に久留米の結婚式場日本料理の「松源」に修行に出していました。
 昭和6年(1931年)満州事変勃発、昭和7年上海事変勃発、久留米工兵第18大隊の肉弾三勇士の勇名は天下に轟き、父三男は公会堂前の銅像で記念写真を撮って来ていました。徴兵も間近で思うところがあったと思います。
 昭和7年三潴軌道柳川、羽犬塚線が廃止となり、昭和10年(1935年)町の発展策のためマーケットを立てようということで祖父留吉も参画、連合百貨店大川デパートを建立する、福岡市の「岩田屋」や北九州の「井筒屋」より一足早く開店する。若津芸者を呼び米100俵を積んでの落成式は盛大だったという。当店も「かしわ店」のほうを出店、前出の池上トシミさん談「私が時たま買い物に行くのを知っておられ、沢山おまけしてくれました。何か義侠心の強い方であったようなおソメおばさんで、貧しい人には特に優しくして呉れました。今でも覚えていて胸にぐっと来るものがあります」と述べておられます。

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昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋事件勃発、9月2日支那事変と改称。森三男、昭和13年(1938年)久留米第48より抗州湾上陸作戦に出征、上海、南京、広東、南寧と転戦。軍功誉れ高く、部隊長の賞辞(賞状)を頂き昭和16年(1941年)6月29日除隊、弾丸飛び交う中、果敢に敵陣に切り込み「肉弾三勇士」に負けずと任務遂行したと思います。
父留吉に一番に報告し喜んで貰おうと勇んで7月1日帰宅するが様子がおかしく問いただすと、非情にも「留吉父ちゃんはきのう亡くなった(6月31日)。」聞くや否や悔しさと歯がゆさで、怒ること、狂うこと、何でもかんでも投げつけ、暫らく手がつけられなかったそうです。戦地でならやむを得ぬが久留米の連隊まで帰って来ており、一報したら飛んでくるのにと、父の歯がゆさ悔しさ残念無念の心境はいたく想像できます。(軍の機密上任務地は極秘事項連絡不可)
日独伊三国同盟、対日経済包囲網ABCDライン、昭和16年12月8日太平洋戦争(大東亜戦争)開戦、生活物資の統制配給制になる、久留米市内の高等料理店30店廃業、この戦時下では料理屋美好は休業、昭和18年(1943年)8月長兄森一男死亡、父三男も再招集久留米第18師団(菊兵団)の中核部隊歩兵第56連隊に所属、インパール侵攻作戦時の助功隊として長期間阻止する任務でビルマ雲南方面に出征、戦況は厳しく生還せぬ覚悟でした。昭和19年(1944年)サイパン島玉砕、日本中がB29の爆撃圏内に入る、グアム島玉砕、父は菊兵団の部隊編成により本土防衛部隊として転属、同年9月13日ビルマ雲南守備隊玉砕、昭和20年(1945年)6月太刀洗陸軍飛行場で神風特功隊のB29撃墜配置計画と本土防衛部隊に配属、8月7日大牟田市空襲8月11日久留米市空襲、佐賀県諸富の味の素工場も米軍のグラマン戦闘機により空襲を受け、当大川デパートも機銃掃射を受ける(その時の20口径弾丸と薬きょうが残っています)。8月15日終戦、間一髪まさしく九死に一生にて帰還する。

肉の美好

 この為書きは、頭山満翁と親しく孫文とも親交がある大陸浪人政治家の玄洋社社員、
末永節(みさお)先生より書いて頂いたものです。

 父は三男坊で家督を継ぐ必要も無く、玄洋社のアジア主義に憧れており、
狭い日本よりいずれ大陸に渡り思う存分働きたいという大志を抱いていました、
それで末永先生とご縁があったと思います。

 復員して来たものの村石家の家族5人、自分の弟姉妹、兄の家族8人計13人を抱えて
暮らすにはかしわ店で生計を立てて行かざるを得ません。戦中戦後の食糧事情は悪く
食料の遅配欠配は当たり前で、栄養失調からくる結核は不治の病と云はれ牛乳や卵は
貴重品で薬代わりでしたし、かしわ(鶏肉)も数少ない蛋白源(栄養源)でした。
佐賀の諸富や早津江からも渡し舟に乗って買いに来てもらっていましたし、
農家の方は米を持ってきて分けてくれ(物々交換)等と多くのお客さんに恵まれ、
家族全員で働きました。  

 料理屋時代も、お客さんの求めに応じて牛鍋、すき焼きなど肉屋さんから仕入れてきて
出していたようで、それを知っているお客さんから牛肉はないかと尋ねられ、
売ってくれと頼まれることが多くなりました。 
 
 だが、当時も仏教の教えによる忌み感は強く、封建制の職業偏見も根強く、
祖母ソメも、父・三男も家族も取り扱うことに大いに苦衷、逡巡しました。
医薬品が足りず、栄養失調や肺炎による衰弱死、前途ある青年うら若き子女らが吐血し、
悲しみながら亡くなっていく様子を見、「医食同源」「滋味栄養」と病を治癒し回復する
薬代わりになり、体力造り回復に少しでも役に立てばと考え直し、
取り扱うようになりました。

 蒸気機関車みたいな大きな冷蔵機械を備え付けた冷蔵庫を作り、食肉類も扱うようになりました。料理屋時代に世話になった肉屋さんから分けてもらい、父が「松源」で修行の時捌き方など習得していたのでそれは役に立ちました、終戦後はみんな生きていくのに必死でした。

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昭和30年から40年代になると安定成長期になり父も大川百貨サービス理事長(月賦販売、現代のクレッジト会社の先駆、個人の資産を提供し運営)大川信用金庫総代、大川商工会議所議員、大川商店連合会会長と公私にわたり活躍し、来る者拒まずいろんな人が出入りしていました、父は大欲を持っていまして人の喜ばれる姿を見て自分も欣ぶ(よろこぶ)という無償の心の欲で、二三逸話を紹介します。 
?移動しながら陶器類を売って暮らしている家族がおられました、暗くなり娘さん3人がワラの中にもぐって寝ようとする様子を見て、自宅に連れて来て風呂に入れてやり、家族と一緒に食事をして、自分の娘達と一緒に布団の中に休ませ泊めたことがありました、台湾籍の方でご恩は忘れませんと感謝され涙ながら別地に行かれました、後日成功して店を構えるようになられ、「森三男先生謝謝」とお礼の手紙をいただきました。姉が結婚する時びっくりするような陶器類をお祝いに戴きました。
?隣に飲み屋さんがあり、気に入らないことがあったのか店内で大暴れして何でも投げ倒し大騒動になりました、普通そこで止めに入るけど父は逆に「騒がんでもっと飲め腹いっぱい飲め」とけしかけ、酔いつぶれると胸倉を掴みパンパンとビンタを食らわせ又飲ませますもう飲めんと弱音をはくと、貴様これくらいの酒で騒ぐなと諭します、この親父は他の者と違うと思ったのか「おっちゃん、おっちゃん」と懐き、よく遊びに来るようになりました。
?近くにパチンコ店があり玉の出が悪いと、カッとなりいすで台を叩き割り次々に壊し大暴れとなりました、父の出番で止めると逆効果で気の済むまで暴れさせます、落ち着いたころ一杯飲ませ出が悪いときは俺のとこへ来いと何がしか遣っていたようです、その後ある事件を起こし久留米検察庁に仮釈放の身元引受人として呼ばれました、父を頼りにしたのだと思います、「親父、一人殺すも二人殺すも同じこと、なんかあったら俺に云ってくれ」とすっかり心酔していました。?ある方が大川信用金庫に勤められることに
なり身元保証人が必要となり困っておられました、すると信用金庫のほうから森さんに頼みなさいと助言され、「面識も無いのにおそるおそる相談に行ったところ、宜しいと一諾」何と剛胆な方だと私の方がびっくりしました、生活がかかっていたので助かりましたお蔭様で定年まで勤めることが出来ました、本当に感謝しています。」と父の霊前で泣きながら話して戴きました。
いずれも父の度量を推し量る話です。
昭和29年1町5カ村合併(大川の父、福岡県議会の大御所)添田雷四郎町長より龍野喜一郎氏初代市長となり3期つとめられる、2期目の助役が古賀杉夫氏(後の柳川市長、衆議院議員古賀一成氏の父)3期目の助役が古賀龍生、龍野市長は後継市長に助役ではなく中村太次郎氏を指名、第4代市長に当選(この後継人選が鍵、後年、何故か分かる)
余談 添田雷四郎氏の甥(姉琴子長男)が山崎達之輔(農林大臣逓信大臣)、山崎巌(内務大臣自治大臣)、山崎平八郎(国土庁長官)、これぞ世に言う山崎三代のこと、郷土の誇りです、大川は僻地ゆえ大臣級の代議士をもっとかないと取り残される。
 昭和45年秋、大川市はある量販店と随時契約により旧市役所跡地を売却することにしていた、ある会員がそれを聞きつけ建白書なるものを大川市に提出した、それには連合会会長森三男名で出されていたが父は知らなかった、内容は大型店が出店したら困るという内容だったらしい、大川市は跡地を処分した代金を新市庁舎建設費に充当し、出来るだけ市民の税金を使わないよう議会に報告していたので、会に具体的な利用方法と資金調達計画を作り、12月議会に請願書を出すよう要望、しかし商店会は売り出しを共同でするくらいで会員も定かではなく会費もまちまちで受け皿の体をなしておらず、当事者能力はない様でした。そんな訳で12月議会は継続審議となり留保、「法人格のある協同組合を作り売買代金を準備するよう」市側は要請。父はその旨会員に伝えるが無関心でまとまらず、46年の3月議会が始まる、一般質問で市役所跡地はどうなったかと聞かれる、中村市長は森三男会長が懸命に努力されているので今しばらく様子を見たいとの答弁、父の方も会員に催促するがまとまらないまま月日は経ち、6月議会が始まる、中村市長は少数与党であるため質問攻めに遭う、ここまで長引くと普通審議未了廃案となり却下される、となると売却代金は入ってこず議会との約束はどうなるかと責められ中村市長は窮地に陥り、さらには責任問題となり進退問題となり野党側の思う壺となる、“清廉潔白”な中村太次郎氏を龍野喜一郎前市長が何ゆえ何のため後継指名したか意味が無くなる。ご存知のように中村太次郎市長は当時の清力酒造の社長であり岳父中村綱次氏は先々代社長で私財を提供し大川町のため寄与、活躍された奇特家です。
 9月議会にはいよいよ結論を出さなければならず市の執行部も焦り困り果て、庶務課長はひと目を避けるようにして自宅へ日参し、協同組合が出来る可能性、支払い代金のめどなど経過を聞きに来ていました。127名も会員がいるから一人当たり約60万円分担すれば売買代金は調達できる計算だが、金まで出して参加したくないという利己心でまとまらず、父も困り果て窮地に陥っていました。中村太次郎市長と父森三男とは市長選挙を通じてお互いに深い信頼関係にありました、それゆえ今日まで議会で追いこまれながらも父のため待たれ、森さんなら何とかしてくれると信頼されていました、父も重々その温情を承知しているが、高血圧で2回倒れていて健康面の不安もあり苦渋していました、出来るなら請願不採択で廃案になって欲しいと悩んでいました。しかし9月議会が迫っており、市長室で(46年7月14日)市長、助役、庶務課長、管財係長、当方からは森三男、保証人予定の方(市の方から指定)おいで下さいとのことで、市の案を提示され質疑協議しました。内容は買受人 連合会会長森三男、保証人は連合会の副会長達では無く(会は信用性が無く支払い能力が無いと認識されていたのか)、父と個人的な関係ある鶴英男氏、同じく個人関係の竜昇一氏(8月事故で死亡)立会人同じく個人関係の岡野辛一郎氏、この方々は市長選を通じて中村太次郎氏を支持応援し、中村市長も信頼している人達です、このメンバーなら何とか出来ると市長も考えられたと思います。数日後父は体調が悪く臥していました、枕元にて竜さん鶴さんと話し合っていました、この3人だったら出来ると父も決断しました、ここまで来て逃げたら卑怯者といわれ、父が一番嫌いな言葉です。しかし8月23日竜昇一氏は交通事故で亡くなられ、9月13日助役室で助役、庶務課長、管財係長、建設課長と、森三男、保証人予定の鶴英男氏で文案を検討する、竜さんのこともあり「森さんが途中で亡くなった場合はどうするか、森さんが会長を辞めた場合はどうなるのか」と質問、市側の答えは「森さんの死後は法定相続人である家族が引き継ぐ、会長辞任の場合でも前連合会会長森三男として名前は残り代金支払い等の責務は最後まで残る」と、これは庶務課長が答え助役が確認、これを聞いて買受人は森三男個人だと考え、大金ではあるし保証被りのおそれが大きく親族会議の末決心、この場に市長は居らず翌14日森、鶴氏、岡野氏と3人で市長の自宅を訪問、前日の応答を確認、市長は「助役たちの言っている通りだ」と返答「請願の手前、出来得れば協同組合を設立し、そちらに移行して貰えないか」と話されていたそうです。
 昭和46年9月18日売買契約締結、9月議会にぎりぎり間に合う、森三男個人の土地を担保に差し入れ信用金庫から融資を受けて保証金650万円を支払う、大川市の方から庶務課長も同行し料亭に一席設ける(市が接待することなど前代未聞)。中村市長はさぞかし安堵されたことだと思います。
忠義を重んじるのは清和源氏末裔の武士(もののふ)村石家の血か。

父は早速、連合会臨時総会を招集し経緯を説明、協同組合を作ってくれと要請、大川商店連合会とは若津、若冶、銀座、中央商店会の連合体で事業目的など無く、大売出しを一緒にやろうということで作った団体ですが、来たる昭和47年(1972年)3月31日が1回目の支払日だから急ぐよう催促、しかしまたもや非協力で昭和47年3月31日、土地を担保にして1,250万円借り大川市に支払う、更に会に催促するがまとまらず又一年たち昭和48年3月31日同様に2回目の代金1,260万円借りて市に支払う、借入金だから当然利息が発生します、利息支払い用に更に450万円借り入れする。昭和48年11月臨時総会を開いて組合設立趣意書を作る、若津若治商店会は地理的に離れているから最初から加入しない、昭和49年(1974年)2月銀座商店会から組合加入辞退届け提出、残るは中央商店会だけだから3月31日までに返答するよう催告、市も父が苦労しているのをよく承知しており、跡地を駐車場にして少しでも支払利息の足しにするようにと配慮してもらう、昭和49年3月31日の3回分支払いは交差点改良事業として道路拡幅分の売却代金を充当し5月31日付けで支払い相殺して配慮してもらう。
 中学2年の時父が高血圧で倒れ、家業の手助けにと高校1年16才の時学校の帰り自動車学校に行き軽四輪の免許を取る、18才の時、小生この市役所跡地代金6,650万円の支払い債務を負う、利息がかさみ家のほうから補填しないと足らないようになってきました、無駄な出費は極力抑え利息に回さざるを得ません、成人式も背広など買えず親父のお古の羽織袴で行きました、当時着物は禁止されていたので目だったのか壇上の中村市長も苦笑い。
 個人的に色々画策する会員もいたが、市はあなた達ではだめ、森さん達三人が中心でないと認めないと相手にせず、結局市が心配したとおり組合は出来なかった、だが4回目の支払いが迫っており金融機関に相談に行くがこれ以上の融資は出来ないとの返事、金策が出来ないとなると今まで納入した代金は没収、金融機関にも返済できなくなり当方の被害は膨大なものとなる、孤軍奮闘すれどもまさしく四面楚歌、市に支払いの延期の相談に行くが、払う当てはなくまだあと3,050万円残債があり、絶体絶命、眠られない日が続きました、こういうストレスが血圧に一番悪くまた体調を壊し暫く寝込んでいました、そのとき地場の大手銀行から残債を一括融資します、市に払った後土地を貸してもらえないかという相談に見えました、キーテナントに大型店を誘致し地元の希望者の方も出店して下さいとのことでした、ちょうど福岡県の大川商店街診断勧告書に大型店を中心とした買い回りゾーンを造り商店街の核にするよう勧告されていたので,父は賛同し経費もろもろ3,700万円を融資してもらい、大川市に払い所有権移転登記を済ませ登記権利書を貰いました市からは「本当に長い間ご苦労様でした」とねぎらいと感謝の言葉をかけてもらいました。父も責任を果たしほっとするが今度は跡地を利用して借入金の返済に着手せねばならず、結局協同組合は出来なかったが別の形で土地建物の管理会社なり作りそちらの方に譲りたいと考えていました。診断書に基付いた核店舗のプランを発表し希望者を募ったら、大騒ぎになりいつ所有者が森三男になったか、払い下げは誰にしたのか、自分たちは知らなかった背任横領だと集団でプラカードを持って市に押しかけマイクで騒ぎ立てる、役所はこういう集団示威行動には弱く「請願は出しただけ、後は知らん振り、お金も出さない、森さん一人に責任負わせ、あなた達は勝手すぎる、心から謝り、誠意を持って相談に行きなさい」と本当のことを言えばよいが「請願は連合会であったと認識している、登記は任意団体であるので代表者名の森三男でしか出来なかった」とお役所答弁で口濁す責任逃れの腰抜け木っ端役人気質。その言葉質を御旗に燕雀どもは雷同する、「請願は自分達が出したから土地は自分達の物、登記は方法がないから名前を借りただけ、代金は森三男が勝手に立替払いしているだけ、駐車料は利息をつけて返せ」と主張。

昭和51年4月中村太次郎市長が逝去

昭和51年5月古賀龍生市長になる

昭和51年9月処分禁止の仮処分申請、
 債権者 連合会 債務者 森三男

昭和51年12月所有権移転登記抹消請求事件
 原告 商店連合会  被告 森三男

マスコミも、裁判所も政治的背景とか知る由もなく市の発言を鵜呑みにする、裁判官は「今もって協同組合も作って無いのですか、土地代金も用意して無いのですか」とあきれ返るが、原告に有利になるような現職市長の公印の押された文書を証拠として次々に提出する、公文書は私製文書より証拠力がはるかに強く、前庶務課長(現収入役)は法廷にて証人尋問を受けるが「記憶に有りません」の一点張り、父は個々の会員とは長年一緒にやってきた仲間ですし、さほど立腹しておらず、煽動しているのが以前から色々工作して土地を手に入れようとして、前中村市長から「あなた達ではだめだ」と拒絶された連中で「信頼していた森会長に騙された個人的な付き合いも買い物もこの3人の店でしないよう」と街宣車で町中流すが、いつものやり方だと知っているので腹は立つが無視。しかし前庶務課長には怒りが収まらず、「前中村市長の命を受け連中の目を避けるよう日参し、泣き付いて懇願したのをもう忘れたのか、それで収入役が務まるのか、二君に仕える奸臣め、世が世なら日本刀でぶった切ってやる」とそれは歯噛し憤慨していました、父曰く「色々経緯はあったものの森さんのご苦労のお陰で市は助かりました」それだけでよい、土地が欲しくて奮迅したのではない、責任を果たしただけだ。
「為森三男君 男無私欲 沃火 活水」
平安時代菅原道真公、讒言により大宰府に流される京の都は恐れおののく不吉なことが起こる藤原時平若くして亡くなる。現在の大川市人口約3万8千人市勢無く商店街も空き家閑古鳥。

昭和52年頃は借入金が約1億円近くになり毎月の支払い利息約100万円、捻出するのに四苦八苦,店が8時頃終わりそれから利息の足しにと駐車場の番に12時頃まで行く、暖を取る灯油も買えず木炭火鉢暮し、電灯も勿体無くろうそく懐中電灯で明かりを取る、風呂を沸かす石炭も節約、見かねて木工所の方が木切れをくれる、ズボンも継ぎだらけ祖母ソメが年金から茂にズボンを買ってやってくれとこっそり渡す。訴訟費用も桁違いのお金が架り数ヶ月に1回しか法廷は開かれず遅々として進まず、うちだけ戦時中のように欲しがりませんと耐乏生活、父曰く「臥薪嘗胆、艱難辛苦汝玉にする」。
見るに見かねて大川商工会議所の副会頭、江藤展吉氏「森さん、あなたが遣ってきた事は心ある多くの市民は分かっている人間の器量が違いすぎる、こんな連中を相手にするな、会議所に任せろ」と説得。父と江藤副会頭とは3号議員で供に監事で江藤氏は特功隊上がり、肝胆相照らす仲、気性も似ており理不尽な事には引かない性格で江藤さんのなだめ役が父で、他の人が説得しても譲らない。今度は江藤さんがなだめ役、「多くの市民は森さんの人柄を理解している、世の中にこんな理不尽なことがあるかと腹を立てている」との言葉にあとは江藤君に委ねようと決心。朝鮮の役で深く結ばれた加藤清正と立花宗茂の、慶長5年、三橋中山散田黒衣での清正公の勧告に宗茂公の決意する場面も斯く在りや。
時に昭和55年小生30才、多くの方からよく耐え忍んだな、何かあったら相談に来いと激励してもらう、病院の理事長夫妻からも自分たちも応援するから頑張り努力しなさいと言葉をかけて頂く、本当に多くの方から励ましていただく。以来、朝に朝星、夜に夜星と精進して御陰様でやっと今日まで来ることが出来ました。
伝え聞くところによると元収入役の方はその後、精気無く成られ、歩くことかなわぬように成られ、いつの時か亡くなられたそうです。
今までは巧く立ち回ってこられたが、ついに県議会選挙買収事件に絡み晩節90数歳で八女検察庁にて長期間取調べを受け、元市長ゆえ行政の功あり高齢でもあり罪一等免じ起訴猶予処分、巷間数年前寂しく亡くなられたそうです。
新人物往来社、森一族のすべてより「森家は久留米市内が発祥の地、家紋は男紋が[丸に剣梅鉢]で厳寒に万花に先駆けて咲く梅と、世の悪に剣を取って立ち向かう志の高さとを先祖が子孫に伝えたいと思ってこの紋を選んだのではないか」森キクヨ談より。
昭和59年小保別当職吉原家と縁戚になる、当主、吉原正俊氏「とうとう親戚になりましたのう」と大いに喜ばれる。
時代の流れで留吉翁の「美好」の構想は変わらざるを得なかったが、志を引き継ぎ、美味しかったと喜んで貰うよう、お客さんの要望にあった食材を選び抜いて提供するよう心掛けています。 「美味愛好」
天文5年(1536年)村石家下向して475年。
明治44年祖父留吉、祖母ソメ縁有りて100年。

文責 森 茂