美好の歴史 目次

はじめから読む

一、 ご当地とのゆかり
二、 三潴郡大川町榎津の発展
三、 剛毅豪胆 祖父森留吉伝
四、 久留市軍都となる
五、 森留吉と村石ソメ運命の出会い
六、 屋号「美好」の由来
七、 人力車に揺られて芸者さんが通る美好料理屋から花の金一封
八、 大川デパート建立
九、 支那事変、大東亜戦争
十、 為森三男君 男無私欲 沃火 活水
十一、 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
十二、 讒言 菅原道真公の嘆きもかくや
十三、 袖に涙がかかる時、人の心の奥ぞ知られける

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昭和30年から40年代になると安定成長期になり父も大川百貨サービス理事長(月賦販売、現代のクレッジト会社の先駆、個人の資産を提供し運営)大川信用金庫総代、大川商工会議所議員、大川商店連合会会長と公私にわたり活躍し、来る者拒まずいろんな人が出入りしていました、父は大欲を持っていまして人の喜ばれる姿を見て自分も欣ぶ(よろこぶ)という無償の心の欲で、二三逸話を紹介します。 
?移動しながら陶器類を売って暮らしている家族がおられました、暗くなり娘さん3人がワラの中にもぐって寝ようとする様子を見て、自宅に連れて来て風呂に入れてやり、家族と一緒に食事をして、自分の娘達と一緒に布団の中に休ませ泊めたことがありました、台湾籍の方でご恩は忘れませんと感謝され涙ながら別地に行かれました、後日成功して店を構えるようになられ、「森三男先生謝謝」とお礼の手紙をいただきました。姉が結婚する時びっくりするような陶器類をお祝いに戴きました。
?隣に飲み屋さんがあり、気に入らないことがあったのか店内で大暴れして何でも投げ倒し大騒動になりました、普通そこで止めに入るけど父は逆に「騒がんでもっと飲め腹いっぱい飲め」とけしかけ、酔いつぶれると胸倉を掴みパンパンとビンタを食らわせ又飲ませますもう飲めんと弱音をはくと、貴様これくらいの酒で騒ぐなと諭します、この親父は他の者と違うと思ったのか「おっちゃん、おっちゃん」と懐き、よく遊びに来るようになりました。
?近くにパチンコ店があり玉の出が悪いと、カッとなりいすで台を叩き割り次々に壊し大暴れとなりました、父の出番で止めると逆効果で気の済むまで暴れさせます、落ち着いたころ一杯飲ませ出が悪いときは俺のとこへ来いと何がしか遣っていたようです、その後ある事件を起こし久留米検察庁に仮釈放の身元引受人として呼ばれました、父を頼りにしたのだと思います、「親父、一人殺すも二人殺すも同じこと、なんかあったら俺に云ってくれ」とすっかり心酔していました。?ある方が大川信用金庫に勤められることに
なり身元保証人が必要となり困っておられました、すると信用金庫のほうから森さんに頼みなさいと助言され、「面識も無いのにおそるおそる相談に行ったところ、宜しいと一諾」何と剛胆な方だと私の方がびっくりしました、生活がかかっていたので助かりましたお蔭様で定年まで勤めることが出来ました、本当に感謝しています。」と父の霊前で泣きながら話して戴きました。
いずれも父の度量を推し量る話です。
昭和29年1町5カ村合併(大川の父、福岡県議会の大御所)添田雷四郎町長より龍野喜一郎氏初代市長となり3期つとめられる、2期目の助役が古賀杉夫氏(後の柳川市長、衆議院議員古賀一成氏の父)3期目の助役が古賀龍生、龍野市長は後継市長に助役ではなく中村太次郎氏を指名、第4代市長に当選(この後継人選が鍵、後年、何故か分かる)
余談 添田雷四郎氏の甥(姉琴子長男)が山崎達之輔(農林大臣逓信大臣)、山崎巌(内務大臣自治大臣)、山崎平八郎(国土庁長官)、これぞ世に言う山崎三代のこと、郷土の誇りです、大川は僻地ゆえ大臣級の代議士をもっとかないと取り残される。
 昭和45年秋、大川市はある量販店と随時契約により旧市役所跡地を売却することにしていた、ある会員がそれを聞きつけ建白書なるものを大川市に提出した、それには連合会会長森三男名で出されていたが父は知らなかった、内容は大型店が出店したら困るという内容だったらしい、大川市は跡地を処分した代金を新市庁舎建設費に充当し、出来るだけ市民の税金を使わないよう議会に報告していたので、会に具体的な利用方法と資金調達計画を作り、12月議会に請願書を出すよう要望、しかし商店会は売り出しを共同でするくらいで会員も定かではなく会費もまちまちで受け皿の体をなしておらず、当事者能力はない様でした。そんな訳で12月議会は継続審議となり留保、「法人格のある協同組合を作り売買代金を準備するよう」市側は要請。父はその旨会員に伝えるが無関心でまとまらず、46年の3月議会が始まる、一般質問で市役所跡地はどうなったかと聞かれる、中村市長は森三男会長が懸命に努力されているので今しばらく様子を見たいとの答弁、父の方も会員に催促するがまとまらないまま月日は経ち、6月議会が始まる、中村市長は少数与党であるため質問攻めに遭う、ここまで長引くと普通審議未了廃案となり却下される、となると売却代金は入ってこず議会との約束はどうなるかと責められ中村市長は窮地に陥り、さらには責任問題となり進退問題となり野党側の思う壺となる、“清廉潔白”な中村太次郎氏を龍野喜一郎前市長が何ゆえ何のため後継指名したか意味が無くなる。ご存知のように中村太次郎市長は当時の清力酒造の社長であり岳父中村綱次氏は先々代社長で私財を提供し大川町のため寄与、活躍された奇特家です。
 9月議会にはいよいよ結論を出さなければならず市の執行部も焦り困り果て、庶務課長はひと目を避けるようにして自宅へ日参し、協同組合が出来る可能性、支払い代金のめどなど経過を聞きに来ていました。127名も会員がいるから一人当たり約60万円分担すれば売買代金は調達できる計算だが、金まで出して参加したくないという利己心でまとまらず、父も困り果て窮地に陥っていました。中村太次郎市長と父森三男とは市長選挙を通じてお互いに深い信頼関係にありました、それゆえ今日まで議会で追いこまれながらも父のため待たれ、森さんなら何とかしてくれると信頼されていました、父も重々その温情を承知しているが、高血圧で2回倒れていて健康面の不安もあり苦渋していました、出来るなら請願不採択で廃案になって欲しいと悩んでいました。しかし9月議会が迫っており、市長室で(46年7月14日)市長、助役、庶務課長、管財係長、当方からは森三男、保証人予定の方(市の方から指定)おいで下さいとのことで、市の案を提示され質疑協議しました。内容は買受人 連合会会長森三男、保証人は連合会の副会長達では無く(会は信用性が無く支払い能力が無いと認識されていたのか)、父と個人的な関係ある鶴英男氏、同じく個人関係の竜昇一氏(8月事故で死亡)立会人同じく個人関係の岡野辛一郎氏、この方々は市長選を通じて中村太次郎氏を支持応援し、中村市長も信頼している人達です、このメンバーなら何とか出来ると市長も考えられたと思います。数日後父は体調が悪く臥していました、枕元にて竜さん鶴さんと話し合っていました、この3人だったら出来ると父も決断しました、ここまで来て逃げたら卑怯者といわれ、父が一番嫌いな言葉です。しかし8月23日竜昇一氏は交通事故で亡くなられ、9月13日助役室で助役、庶務課長、管財係長、建設課長と、森三男、保証人予定の鶴英男氏で文案を検討する、竜さんのこともあり「森さんが途中で亡くなった場合はどうするか、森さんが会長を辞めた場合はどうなるのか」と質問、市側の答えは「森さんの死後は法定相続人である家族が引き継ぐ、会長辞任の場合でも前連合会会長森三男として名前は残り代金支払い等の責務は最後まで残る」と、これは庶務課長が答え助役が確認、これを聞いて買受人は森三男個人だと考え、大金ではあるし保証被りのおそれが大きく親族会議の末決心、この場に市長は居らず翌14日森、鶴氏、岡野氏と3人で市長の自宅を訪問、前日の応答を確認、市長は「助役たちの言っている通りだ」と返答「請願の手前、出来得れば協同組合を設立し、そちらに移行して貰えないか」と話されていたそうです。
 昭和46年9月18日売買契約締結、9月議会にぎりぎり間に合う、森三男個人の土地を担保に差し入れ信用金庫から融資を受けて保証金650万円を支払う、大川市の方から庶務課長も同行し料亭に一席設ける(市が接待することなど前代未聞)。中村市長はさぞかし安堵されたことだと思います。
忠義を重んじるのは清和源氏末裔の武士(もののふ)村石家の血か。

父は早速、連合会臨時総会を招集し経緯を説明、協同組合を作ってくれと要請、大川商店連合会とは若津、若冶、銀座、中央商店会の連合体で事業目的など無く、大売出しを一緒にやろうということで作った団体ですが、来たる昭和47年(1972年)3月31日が1回目の支払日だから急ぐよう催促、しかしまたもや非協力で昭和47年3月31日、土地を担保にして1,250万円借り大川市に支払う、更に会に催促するがまとまらず又一年たち昭和48年3月31日同様に2回目の代金1,260万円借りて市に支払う、借入金だから当然利息が発生します、利息支払い用に更に450万円借り入れする。昭和48年11月臨時総会を開いて組合設立趣意書を作る、若津若治商店会は地理的に離れているから最初から加入しない、昭和49年(1974年)2月銀座商店会から組合加入辞退届け提出、残るは中央商店会だけだから3月31日までに返答するよう催告、市も父が苦労しているのをよく承知しており、跡地を駐車場にして少しでも支払利息の足しにするようにと配慮してもらう、昭和49年3月31日の3回分支払いは交差点改良事業として道路拡幅分の売却代金を充当し5月31日付けで支払い相殺して配慮してもらう。
 中学2年の時父が高血圧で倒れ、家業の手助けにと高校1年16才の時学校の帰り自動車学校に行き軽四輪の免許を取る、18才の時、小生この市役所跡地代金6,650万円の支払い債務を負う、利息がかさみ家のほうから補填しないと足らないようになってきました、無駄な出費は極力抑え利息に回さざるを得ません、成人式も背広など買えず親父のお古の羽織袴で行きました、当時着物は禁止されていたので目だったのか壇上の中村市長も苦笑い。
 個人的に色々画策する会員もいたが、市はあなた達ではだめ、森さん達三人が中心でないと認めないと相手にせず、結局市が心配したとおり組合は出来なかった、だが4回目の支払いが迫っており金融機関に相談に行くがこれ以上の融資は出来ないとの返事、金策が出来ないとなると今まで納入した代金は没収、金融機関にも返済できなくなり当方の被害は膨大なものとなる、孤軍奮闘すれどもまさしく四面楚歌、市に支払いの延期の相談に行くが、払う当てはなくまだあと3,050万円残債があり、絶体絶命、眠られない日が続きました、こういうストレスが血圧に一番悪くまた体調を壊し暫く寝込んでいました、そのとき地場の大手銀行から残債を一括融資します、市に払った後土地を貸してもらえないかという相談に見えました、キーテナントに大型店を誘致し地元の希望者の方も出店して下さいとのことでした、ちょうど福岡県の大川商店街診断勧告書に大型店を中心とした買い回りゾーンを造り商店街の核にするよう勧告されていたので,父は賛同し経費もろもろ3,700万円を融資してもらい、大川市に払い所有権移転登記を済ませ登記権利書を貰いました市からは「本当に長い間ご苦労様でした」とねぎらいと感謝の言葉をかけてもらいました。父も責任を果たしほっとするが今度は跡地を利用して借入金の返済に着手せねばならず、結局協同組合は出来なかったが別の形で土地建物の管理会社なり作りそちらの方に譲りたいと考えていました。診断書に基付いた核店舗のプランを発表し希望者を募ったら、大騒ぎになりいつ所有者が森三男になったか、払い下げは誰にしたのか、自分たちは知らなかった背任横領だと集団でプラカードを持って市に押しかけマイクで騒ぎ立てる、役所はこういう集団示威行動には弱く「請願は出しただけ、後は知らん振り、お金も出さない、森さん一人に責任負わせ、あなた達は勝手すぎる、心から謝り、誠意を持って相談に行きなさい」と本当のことを言えばよいが「請願は連合会であったと認識している、登記は任意団体であるので代表者名の森三男でしか出来なかった」とお役所答弁で口濁す責任逃れの腰抜け木っ端役人気質。その言葉質を御旗に燕雀どもは雷同する、「請願は自分達が出したから土地は自分達の物、登記は方法がないから名前を借りただけ、代金は森三男が勝手に立替払いしているだけ、駐車料は利息をつけて返せ」と主張。

昭和51年4月中村太次郎市長が逝去

昭和51年5月古賀龍生市長になる

昭和51年9月処分禁止の仮処分申請、
 債権者 連合会 債務者 森三男

昭和51年12月所有権移転登記抹消請求事件
 原告 商店連合会  被告 森三男

マスコミも、裁判所も政治的背景とか知る由もなく市の発言を鵜呑みにする、裁判官は「今もって協同組合も作って無いのですか、土地代金も用意して無いのですか」とあきれ返るが、原告に有利になるような現職市長の公印の押された文書を証拠として次々に提出する、公文書は私製文書より証拠力がはるかに強く、前庶務課長(現収入役)は法廷にて証人尋問を受けるが「記憶に有りません」の一点張り、父は個々の会員とは長年一緒にやってきた仲間ですし、さほど立腹しておらず、煽動しているのが以前から色々工作して土地を手に入れようとして、前中村市長から「あなた達ではだめだ」と拒絶された連中で「信頼していた森会長に騙された個人的な付き合いも買い物もこの3人の店でしないよう」と街宣車で町中流すが、いつものやり方だと知っているので腹は立つが無視。しかし前庶務課長には怒りが収まらず、「前中村市長の命を受け連中の目を避けるよう日参し、泣き付いて懇願したのをもう忘れたのか、それで収入役が務まるのか、二君に仕える奸臣め、世が世なら日本刀でぶった切ってやる」とそれは歯噛し憤慨していました、父曰く「色々経緯はあったものの森さんのご苦労のお陰で市は助かりました」それだけでよい、土地が欲しくて奮迅したのではない、責任を果たしただけだ。
「為森三男君 男無私欲 沃火 活水」
平安時代菅原道真公、讒言により大宰府に流される京の都は恐れおののく不吉なことが起こる藤原時平若くして亡くなる。現在の大川市人口約3万8千人市勢無く商店街も空き家閑古鳥。

昭和52年頃は借入金が約1億円近くになり毎月の支払い利息約100万円、捻出するのに四苦八苦,店が8時頃終わりそれから利息の足しにと駐車場の番に12時頃まで行く、暖を取る灯油も買えず木炭火鉢暮し、電灯も勿体無くろうそく懐中電灯で明かりを取る、風呂を沸かす石炭も節約、見かねて木工所の方が木切れをくれる、ズボンも継ぎだらけ祖母ソメが年金から茂にズボンを買ってやってくれとこっそり渡す。訴訟費用も桁違いのお金が架り数ヶ月に1回しか法廷は開かれず遅々として進まず、うちだけ戦時中のように欲しがりませんと耐乏生活、父曰く「臥薪嘗胆、艱難辛苦汝玉にする」。
見るに見かねて大川商工会議所の副会頭、江藤展吉氏「森さん、あなたが遣ってきた事は心ある多くの市民は分かっている人間の器量が違いすぎる、こんな連中を相手にするな、会議所に任せろ」と説得。父と江藤副会頭とは3号議員で供に監事で江藤氏は特功隊上がり、肝胆相照らす仲、気性も似ており理不尽な事には引かない性格で江藤さんのなだめ役が父で、他の人が説得しても譲らない。今度は江藤さんがなだめ役、「多くの市民は森さんの人柄を理解している、世の中にこんな理不尽なことがあるかと腹を立てている」との言葉にあとは江藤君に委ねようと決心。朝鮮の役で深く結ばれた加藤清正と立花宗茂の、慶長5年、三橋中山散田黒衣での清正公の勧告に宗茂公の決意する場面も斯く在りや。
時に昭和55年小生30才、多くの方からよく耐え忍んだな、何かあったら相談に来いと激励してもらう、病院の理事長夫妻からも自分たちも応援するから頑張り努力しなさいと言葉をかけて頂く、本当に多くの方から励ましていただく。以来、朝に朝星、夜に夜星と精進して御陰様でやっと今日まで来ることが出来ました。
伝え聞くところによると元収入役の方はその後、精気無く成られ、歩くことかなわぬように成られ、いつの時か亡くなられたそうです。
今までは巧く立ち回ってこられたが、ついに県議会選挙買収事件に絡み晩節90数歳で八女検察庁にて長期間取調べを受け、元市長ゆえ行政の功あり高齢でもあり罪一等免じ起訴猶予処分、巷間数年前寂しく亡くなられたそうです。
新人物往来社、森一族のすべてより「森家は久留米市内が発祥の地、家紋は男紋が[丸に剣梅鉢]で厳寒に万花に先駆けて咲く梅と、世の悪に剣を取って立ち向かう志の高さとを先祖が子孫に伝えたいと思ってこの紋を選んだのではないか」森キクヨ談より。
昭和59年小保別当職吉原家と縁戚になる、当主、吉原正俊氏「とうとう親戚になりましたのう」と大いに喜ばれる。
時代の流れで留吉翁の「美好」の構想は変わらざるを得なかったが、志を引き継ぎ、美味しかったと喜んで貰うよう、お客さんの要望にあった食材を選び抜いて提供するよう心掛けています。 「美味愛好」
天文5年(1536年)村石家下向して475年。
明治44年祖父留吉、祖母ソメ縁有りて100年。

文責 森 茂